53歳 パート 何をどう感じる 私の場合

たぶん、わたしはその辺にいるひとり。 特別に認められた秀でた能力があるでもなし、この世の中で、この時代で、なんとな~くこういうもんかな~という感じで呼吸して生きている。選んでなにかをしているというよりは、流れでそうなっているという感覚。全力で何かに取り組んできた記憶はないが、そうせざるを得ない状況で(という風な思い込み?)変に頑張った時もある。頑張り方が、あっていたかはわからない。それが周囲に、自分に、なにをもたらしたか考える。 たくさんの情報の中で、何をどう考えるか、何をどうするかいつもわからない。 最

セ●アに、負ける

最近の(いや、もっと前からなのか)100均は、すごい。

かわいいもの、便利なものいっぱいだ。

100均巡りが、近頃の楽しみとなっている。

 

お金もないので、いかにお金をかけずに楽しく時間を過ごすのかはとても重要。

以前は名の通っているメーカーや作家さんなどの雑貨に目がなかった。

頭の中は妄想でいっぱい。

楽し〜時間なのでした。

 

断捨離機運ともあいまって、高額?雑貨は、卒業。

その後の楽しみは、食品。

好きな食料品店があるので、そこを歩く。

成城石井とか、北野エースとか、カルディとか

おしゃれな、海外の調味料とか、チョコレートとか、日本の作り手のこだわりを売りにしているようなかっこいいパッケージの数々。

 

食べ物は、食べてなくなるので、楽しいし、必要なものなので、いいよね。

という理由で、食料品店を歩く。

 

いまや、食費も抑えるべく考えているので、ほぼ実際的なー不健康でなく、栄養になり無駄がなく、お手頃なー食品しか、手にしない。

見るのは楽しいが、買わなくなったので、そこまでの興味が、本当にわかなくなってしまった。

(この辺りは食の考えの、変化も大きいので、またの機会にね。)

ほんの時たま、オヤツとして美味しそうなものは、買いますけどね。

 

そんなことで、100均通いがここ最近のブームになってしまったのでした。

 

 

今年に入ってから、趣味程度での手作りもの制作を仕事の合間に始めてフリマアプリで、出品したりし始めました。

 

パッケージを見よう見まねで、作ってみたりパーツを、研究してみたりしていて、100均の力の偉大さを痛感しているところです。

色々手に入る。

 

今日も、じぶんのメガネコード(メガネ首からぶら下げるやつね)  があると便利だと思っていたところ、手持ちのパーツで作れそうだと思い立ち、最後に、メガネとコードをつなぐ止め金具だけ購入しようと思いセリアへ。

そこで、見た。。。

 

メガネコード自体が100円で売ってるんですよ。

しかも、品質いい。というか、私の作ってるのより、なんかいい感じじゃないの?

ビーズチェーンみたいので、出来てるのとか。

 

ショックですね。

手作りするより、安いという、、、

 

考えてみると思い当たるのが、一人暮らしの食事事情。

知り合いに一人暮らしの年配がいっぱいいるけれど、出来合い、冷凍食品の、安いこと。

材料買う方がお金かかるという話。

それ思い出した。

 

自分で何か一生懸命作っても、手間と材料費は、出来合いのものより上回ってしまうのか。

 

ちょっと前までこんなんじゃなかったのでは?

手で、作る方が安かったと思うんだけど。

 

しかも、自分で何か作り上げることのできるようなパーツや、梱包材などが、手に入ってしまうのだ。

誰でも何かプロのようにできてしまう。

昔は、何かを包むのにちょうど良いポリケース?や、箱なんか探すのにどうするのかわからなかったし、素人が扱えるような少量は、手に入らなかったと思うんだけど。

 

誰でも材料が、手に入って売りに出すことができる。

そして、すでに出来上がったものも、安い金額で、手に入ってしまう。

 

じゃ、なんで手作りするのか、と、いう。

 

なんか大変な状況になっているのでは!〜

 

 

 

セリアの商品が、可愛すぎて、もう、負けているんです。

カードひとつ取っても、シールを見ても、ケーキのアルミカップだって、山岳用品みたいのだって。

品揃えだって、なんだか嫉妬してしまうくらいなんだよ。

なんかかわいすぎて、わたしが、小さい子供だったら、狂喜乱舞していまうようなものがいっぱいじゃないの。

 

いつもまにか、こんな風になってしまった世の中?を今更ながらに体に感じて、なんか愕然とするのだった。

 

 

 

 

 

 

 

家族のためにする家事が好きになれない

家のことをするのは嫌いじゃない。

むしろ好きなのだと思う。

料理や洗濯、アイロンかけ、買い物。季節の服の出し入れ、靴磨き。

浴槽を洗うことだって楽しかったりする。

 

これが、家族のため、と考えるとやる気がぐ〜〜〜んと下がるのだ。

おそらく義務感が支配し始めるからなのかなと思っている。

 

自分のために料理するのは本当に楽しいが、家族に食事を用意することは、時には楽しいのだが、その楽しさは自分自身にするときとは明らかに違うモードだ。

 

家族の中のお母さん、とか奥さんとかという立場が好きになれないのだと思う。

 

これら生活のための作業は、立場的な考え抜きではできないと感じてしまうからだと思う。

変に不機嫌でこれらをこなすような時もあったりする。

 

家事を立派にこなすお母さんというのは、他人の場合はいいな。と思うことはあるのだが、(モーレツに憧れを抱く人たちさえいます。)こと、自分がそうなることに魅力を感じないのだ。自分がお母さん、というイメージに、違和感なのだろうか。

どちらかといえば、自分が、そういうお母さんの子供だったり、旦那だったりするのはいいな〜と思う。

 

理想は家族のみんなが同じように家事をして、それぞれが独立したかのように生活すること。

得意を分担するのはいいが、それを他の人がきちんと分かっていること。

 

これって実現は難しそうです。

他の家族たちの家族観が違うものだから。

 

やっぱり、お母さん、とか、奥さんっていうのが私にはよくわからないんだよ。

 

人の思い込みに対する対処の仕方がわからないとも言えるかな。お母さんだから、奥さんだから、こうするのだろう、というような。

自分で自分を制限してるとも言えるか。

 

それを覆らせる力量もなく、何かなあ、、、を続けてきた。

 

今の環境で衣食住をどうするか。どうやって生活するか。制限が多くあるので、より一般的(その流れになってるので、多分一番経済的)モデルに従うことで落ち着く形になってしまうのかしら。

 

 

最近、家事の分担を口に少しづつ出すことにしている。

一緒に生活しているんだから、家のことは皆がやって当たり前。

これを頑張って、実践します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

美しいもの ある考えに統一された徹底的な表現

いいな!と、思うものがある。

好きな形 や、配置 や、動き がある。

好きな流れ や、言葉選び や、好きな好み がある。

 

これを徹底的にやられると、参ってしまう。

多分これらは個人的なものであり他人の入り込む余地はない。

その人が選び取るものだ。

それを余すところなく現わす。これより説得力のあるものはあるまい。

 

 

若いときの作品は、そのときの最高だ。

年を重ねたときの作品は、そのときの最高だ。

そのときにそうだと思い選択したものにごまかしや、偽りがない限り、後の本人でさえそれにはかなわないのではないかと思う。未熟な部分ですら眩しく見える生の鼓動だ。

 

技術が未熟で納得がいかない時、目指すものが見えていて、届かない時あがいている時。それですら超えて身体から止まることなない、これだ!これだ!これだ!のエネルギー。

 

しかし時の流れにはしっかりついていかねばなるまい。

頭の中だけで、何かを反芻し続けても何かを見失う。

周りの変化や自分の変化を無視しながら同じことを繰り返すこととはどういうことか。

もう一度、同じことを体験できるのを期待していのか。

 

 

頭の中が、ある時点で止まっている人がいる。

たいていの人はそうかもしれない。

自分もそうかもしれない。

 

昔は冴えていた新風を感じた漢方医も、会ってみれば今のわたしの状況を理解することすら放棄するような事務的な対応に、がっかりしたことがあった。

多分同じようなことを言う患者たちに飽きてしまったのかもしれない。

もしかしたら同じような業務の連続に、今の感覚から取り残されてしまったのかもしれない。

何かがズレてしまったのかもしれない。

スタート時の情熱は消え去っていた。

 

医院内は統一感がなくなり、たくさんいたスタッフはいなくなっていた。

漢方医の口の勢いだけが昔のままで、その勢いの魅力は感じられなかった。

 

 

実はある舞台を観てきて、感激して帰ってきたのだが、その舞台はもうかれこれ15年以上再演のたび足を運んでいる舞台で、大好きなのだが、少しづつ衣装やら演出が変わっていくのを見て考えたことだ。

 

なぜ、この作品を作ったのか、からはじまり、今なぜまたこれを上演するのか、理由は必要じゃないかな、と考える。

演者が変われば自ずと何かが変わっていくのだがー若者であったらなお今の空気や、若さそのものをまとっていることでそれ自体が大きな変化だ。

何かを変える必要があるのか、何を変えるのか、これを変えたら、他との整合性は大丈夫なのか。バランスはおかしくないのか。

時間の流れは、作者にどんな影響を及ぼしたのか。それを見たり考えたりすることも楽しいのだが、時間を超えて部分的な何かを変えるのは難しそうだなあと思うのだった。

 

もちろん熟練の技や何年も歌い続けて、今が最高!ということもあるのだろうが、常に「今」という要素抜きには成り立たないような気がしてならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

他人がどうやって生活しているか、想像つかない。

長いこと同じ会社に勤めてきました。

パートの技術職ですが、ここ数年のうちに急激に海外に進出、部分的に移転という形になって行き、自分の仕事が減ってきています。

移行がうまくいっていないところがあるので、仕事はまだありますが、2年後はどうなっているのかわかりません。

 

会社は社員のことを考えてくれるものと、思っていました。

 

私は周りがよく見えておらず、のほほんとしていたのか、万事こんな感じに考えていたところがあります。

 

親は子供のことを考え、国は国民のことを考え、旦那さんは奥さんのことを考え、社長は社員のことを親身に考えるものだ、とどこかで信じているところがありました。

 

おかしなことで、自分のことは棚上げなんですがね、、、、(汗)

 

今は誰も自分に責任を取ってくれないのだ、とようやくわかり、自分のこういう考えは、世間知らずもあるけれど、何かに依存したい気持ちが大きかった故のことだったのかなあと考えるようにもなりました。

 

会社の流れの中で、いかに生きていくか、ということを考え始めなければなりません。

会社の上の人たちの能力も見極めなければなりません。

 

外に目を向けようとしても、世間がよくわからないんですね。

みなさんいかが生活なさっていらっしゃるのでしょう。

 

いろいろメディアで知る人々の生きる姿と実際がよくつながりません。

人付き合いがあまりないので、本当によくわかりません。

 

自分のできることと、世の中を結びつけることは途方もないことのように思えます。

 

技術職といえども、同じ会社の中で狭い範囲のことを繰り返し続けることをのんびりして過ごしていたので、他で通用するかどうかも不明です。

 

さて、どうにか行動を起こしていかねばいけないようです。

老後2000万も、ないしね(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハンドタオルを仕事場でどのように持ち歩くか

今私が解決したいことです。

職場で、仕事柄水を使うことが多いです。

トイレには手を乾かすような設備はありません。

水を使用後に使うのはハンドタオルです。

 

(この間調べたら、ハンカチサイズのタオルは、タオルハンカチで、もう少し大きいのはハンドタオルとの区分けがありましたが、どっちでもいいね!ちっちゃいタオルのことだよ。)

 

これをどう持ち歩くか小さく悩んでいます。

2、3度使ったハンドタオルは濡れてしまって、ポケットがしっとりしてしまいます。

カバンに入れて持ち帰る時も、カバンが濡れてちょっと嫌です。

 

解決策を考えてみることにします。

 

①手洗後、もっともっとよ〜く手を振って水を切る。(少しでも濡れ具合を減らす)

②持ち歩くタオルを増やす。

③使ったタオルはポケットではなく腰に下げる。または机などにぶら下げる。(常に乾かす)

④手自体を自然乾燥に任せる。

⑤この状態で我慢する。

⑥ペーパータオルで拭いて使い捨て。

 

このくらいですか。

 

どれもこれもパッとしないです。

決して濡れないタオルの開発があればすごいですね。

 

最近は濡れた傘入れを結構見かけますが、いいアイデアです。

 

自然界に濡れて乾いてを速攻に繰り返すものがあれば参考にできるものがあるのかもしれないけれど、元々人間は水生生物じゃないし、水にそんなに濡れることは自然じゃないということなのか。

 

ハンドタオルのない時代、水を使う仕事をしていた人たちの事情はどうだったのだろうか。

 

ちょっと前。

手ぬぐい。

手ぬぐいの良さは聞くことありますね。好きで何枚か持ってます。

これ、かわいいです⬇︎

 

 

手ぬぐいかけみたいなのはドラマで台所に吊るしてあるの見たことありますね。

普段は着物だったし、袂に入れておくと通気も良かったのかな。

 

会社で手ぬぐいかけってどうだろう。

おしゃれな人がやったら、おしゃれに見えるかもしれないが。それ以外は時代的に受け入れられないかも。

 

もっと前の時代の人、どうしてたんでしょ?

誰か教えてちょ。

 

これは外出中になりますがアウトドア感覚でこれはどうでしょうか

リュックにキーホルダーに見せタオルもしくはハンカチ。

 

 

 

 

 

 

 

 

上にあげたどれかで対処するしか思い当たらないですね。

多分これしかないので、このどれかを選びましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

脳みその錯覚を楽しむ

わたしの職場は都内の最新流行のものがいつでも目につくような場所にあります。

食品店を見て回るのが好きですが、海外の食品もおしゃれなものが沢山あります。

ここのところ乳製品も、アレルギーやら健康やら美容やらの対策で、アーモンドや、ナッツ代替のもの増えました。対策とともにおしゃれなイメージもあります。

これは結構近所でも見られるようになりましたね。

国産のものも出回り始めて定着の様子です。

 

 

外国から始まって、日本に定着。国産びいきの人は国産を目にして初めて認識するとか、ありませんかね。

目で認識できる範囲の話は、おもしろいですが、またにするとして。

 

時々おしゃれ食料品に置いてあるちょっと高めなおしゃれ飲料が、地元の激安ショップで激安でダンボールごと置いてある光景に、ちょっと脳みそが止まります。

そのおしゃれ飲料は、怪しい飲料のように見えなくもない、、、

 

どう認識するか戸惑うのでしょうか。

 

わたしは激安ショップで買ったおしゃれ飲料を職場で何食わぬ顔して飲んでるわけです。

まるで、職場の近辺で購入したかのように。別に騙そうとしてるんじゃないですよ!

 

イメージ戦略にはまってるなあ。とか

上手な売り方だなあ。とか

賞味期限は近いとはいえ儲けはこれでもでるのかな。とか

おしゃれ店で買い物してる人、見て!とか

 

同時に考えます。

 

いっそ激安ショップを恐ろしくおしゃれなイメージで作ったら、どうなるのか見てみたい。

脳みそがこんがらがるヨ!

 

 

 

 

 

 

 

 

いつかどこかで

好きなものをできる限り使おう。

 

そう思えるようになったのは、かなり歳いってからでした。

 

将来のために、ものを綺麗に溜め込むということをしてきました。

将来が、まだ、現在と、繋がっていなかった時の話です。

 

いまは、無茶苦茶将来につながった現在です。

げ!ん!じ!つ!です。

将来に、この、〇〇を使える〇〇な機会など、もうないとよくわかりました。

美しい家で使うはずの〇〇は、そのまま、新鮮さを失って、手元にあるばかり。

知らない友人達に出す便箋の山。

楽しいメモ帳の数々。

これからこんなにメモらないっしょ。

 

ワンピースに、サンダル。

 

 

 

これらを使い果たそう。

使い倒そう。

 

買ったらすぐ使おう。

と、思うようになりました。

 

知人に、買ったものはすぐ使っちゃう。と言っていた人がいて、その人は、現実主義者だったので、その筋から納得でしたが、同時につまらなくないのかな、とも思っていましたから、わたし、モノによる妄想壁というのかな。モノ壁?

ある意味わたしは現実離れしていたということなのかと思いました。

 

 

ということで、そのものを現実のものとして楽しむことにしました。時間が勿体無い。

 

 

 

こういったこととは別に、寝かせる、というのはありますね。

 

ユ⚫️クロで買った服とかは、人と被らないよう来年おろそうとか。

フリマで買ったものは、なんとなく自分の家と馴染んでから(前持ち主の気配見たいのがなくなってから?)使おうとかね。