美しいもの ある考えに統一された徹底的な表現
いいな!と、思うものがある。
好きな形 や、配置 や、動き がある。
好きな流れ や、言葉選び や、好きな好み がある。
これを徹底的にやられると、参ってしまう。
多分これらは個人的なものであり他人の入り込む余地はない。
その人が選び取るものだ。
それを余すところなく現わす。これより説得力のあるものはあるまい。
若いときの作品は、そのときの最高だ。
年を重ねたときの作品は、そのときの最高だ。
そのときにそうだと思い選択したものにごまかしや、偽りがない限り、後の本人でさえそれにはかなわないのではないかと思う。未熟な部分ですら眩しく見える生の鼓動だ。
技術が未熟で納得がいかない時、目指すものが見えていて、届かない時あがいている時。それですら超えて身体から止まることなない、これだ!これだ!これだ!のエネルギー。
しかし時の流れにはしっかりついていかねばなるまい。
頭の中だけで、何かを反芻し続けても何かを見失う。
周りの変化や自分の変化を無視しながら同じことを繰り返すこととはどういうことか。
もう一度、同じことを体験できるのを期待していのか。
頭の中が、ある時点で止まっている人がいる。
たいていの人はそうかもしれない。
自分もそうかもしれない。
昔は冴えていた新風を感じた漢方医も、会ってみれば今のわたしの状況を理解することすら放棄するような事務的な対応に、がっかりしたことがあった。
多分同じようなことを言う患者たちに飽きてしまったのかもしれない。
もしかしたら同じような業務の連続に、今の感覚から取り残されてしまったのかもしれない。
何かがズレてしまったのかもしれない。
スタート時の情熱は消え去っていた。
医院内は統一感がなくなり、たくさんいたスタッフはいなくなっていた。
漢方医の口の勢いだけが昔のままで、その勢いの魅力は感じられなかった。
実はある舞台を観てきて、感激して帰ってきたのだが、その舞台はもうかれこれ15年以上再演のたび足を運んでいる舞台で、大好きなのだが、少しづつ衣装やら演出が変わっていくのを見て考えたことだ。
なぜ、この作品を作ったのか、からはじまり、今なぜまたこれを上演するのか、理由は必要じゃないかな、と考える。
演者が変われば自ずと何かが変わっていくのだがー若者であったらなお今の空気や、若さそのものをまとっていることでそれ自体が大きな変化だ。
何かを変える必要があるのか、何を変えるのか、これを変えたら、他との整合性は大丈夫なのか。バランスはおかしくないのか。
時間の流れは、作者にどんな影響を及ぼしたのか。それを見たり考えたりすることも楽しいのだが、時間を超えて部分的な何かを変えるのは難しそうだなあと思うのだった。
もちろん熟練の技や何年も歌い続けて、今が最高!ということもあるのだろうが、常に「今」という要素抜きには成り立たないような気がしてならない。