もう、二度と会えない。
14年間一緒に暮らした愛猫が急逝した。
老猫ながらそれなりに健康な感じで過ごしていたが、本当に突然のことだった。(30分ほど前まで元気に動いていたので。後からいろいろ調べてみるとおそらく心臓発作のようなものと思われます。)
家族はパニックになりました。
私は外出からもうすぐ戻るというときに、そのことを電話で知らされ、急いで帰宅。
電話で話を聞いた時、とにかくもう息をしておらず、亡くなってしまった、ということは理解した。詳細は不明だが、おそらくそういうことになってしまったのだろう。
急いで帰る道、一番で思ったことはおかしなことに、自分は悲しんでいない?ということだった。
自分の感覚に日頃疑問を抱くことがよくあるので、この時も、もしかしたら自分は悲しむということができないのじゃないかと思ったのである。
もし悲しいとしたら、何が悲しいのだろう?自分を哀れんでいるのか。酔っているのか。悲しまないといけないと思っているのか。
帰宅。猫を見た途端、涙が溢れて溢れて止まらなかった。
私はちゃんと、悲しかった。
溺愛していた とは違うと思う。
面倒だなと思うこともしばしば。
家の中は毛だらけになる。
トイレ周りはチップが毎日散らばる。
洗濯物には毛がついて取れない。
毛玉をとろうとすれば噛みつかれ、痛い思いをする。
心が通じているとはとても言えない。
昨日と今日では世界が変わってしまうことがある。
昨日のようには考えることが永遠にできない。
なぜなら世界の構成が永久に変わってしまったから。
今日ペット霊園に火葬のため送り届けてきた。
秋のピカピカの良い天気。
これから おそらく習慣化した無意識な普段の行動ひとつひとつの中で、彼との関わりを持った世界の終わりを気付かされていくのだろう。
ベランダの網戸は必ず閉じなくても大丈夫になった。 でも私の指はそれに感付いても網戸を最後まで閉じてみる、といった具合に。もう必要ないのに。
その行動には意味がなくなったのだ。
わたしはいろいろなことから脱却しようともがいてきたが、彼が私のある時代を助けてくれたのが今はよく分かる。
私の人生に猫さえいれば、すべて良い方向に変わる。という強い思いがあった。そして出会ったのが彼だ。
しかし実際はそんなことはなかった。
一緒に同じ時間を生きて、いろいろ感じたのだ。いろいろ感じた時間の中に一緒に存在していたのだ。
もしかしたら私のある時代の終焉なのか。
貪欲なエネルギーが生命同士をつなぐ(つないでいるという錯覚?)ということがあるのかもしれない。
悲しさの本性はよく分からない。
いないことはとてつもなく寂しいし、空虚な気持ちがしばらくは続いていくのだろう。
家族みなが彼を頼りにしていたところがある。
さて、世界はどのように変わっていくのだろうか。