53歳 パート 何をどう感じる 私の場合

たぶん、わたしはその辺にいるひとり。 特別に認められた秀でた能力があるでもなし、この世の中で、この時代で、なんとな~くこういうもんかな~という感じで呼吸して生きている。選んでなにかをしているというよりは、流れでそうなっているという感覚。全力で何かに取り組んできた記憶はないが、そうせざるを得ない状況で(という風な思い込み?)変に頑張った時もある。頑張り方が、あっていたかはわからない。それが周囲に、自分に、なにをもたらしたか考える。 たくさんの情報の中で、何をどう考えるか、何をどうするかいつもわからない。 最

誰かに何かを気づかせる

あまのじゃくな人。

他人じゃないですそういう人は。

 

人のこと人が褒めれば、自分はけなす。

けなせば、褒めるんです。

 

違う面を見てください。というような気持ちになってしまうんですよ。

 

仲の良い人の悪いところは絶対に悪く言わない、とか坊主憎けりゃ袈裟まで憎い

みたいのを見ると、崩したくなるんですね。

 

あなたはこういう人でしょ、と言われれば違うところを押し出したくなります。

 

固定しちゃダメだ!

みたいな危機感のようなものを持っていて、他の人にも、それは誰の判断?

あなたの判断?

と、やりたくなってしまう。

 

その人がその人の視点を持っていなきゃだめだ。となぜか強く思っています。

 

 

 

 

 

 

 

妄想と現実の間 映画JOKERを観た。

少し前、映画観てきました。

 

主人公の妄想が映像のどこまでなのかということが話題に上がっていると知人が

言っていました。

 

みなさん妄想しますよね。

日常茶飯事じゃないですかね。

この映画が受けてるとしたら、皆自分の妄想について思いをはせるからというのも大きな要因ではないかと、妄想っ子な私は勝手に思っているんですが、どんなもんでしょう。

 

 

考えてみました。

人ははたから見ると、何を考えているかわかりませんよね。

外から見たら、大抵の人達は人間らしく振舞っているわけです。

ご飯を食べたり、お風呂に入ったり。トイレで●して、大抵夜寝て。

どこかで見たようなことをたいがいしています。程度の差はあれ、想像の範囲内。

そして最後は例外なく死んでいくという流れです。

 

 

それゆえ皆、自分以外は普通に違いないと思いがちなのではと思っています。

だからと言って、頭の中はわかりませんよ。

 

みなさん人間というものはどういうものと思っているのか、というのはテレビのドラマなんか見てもある部分は想像がつきます。

 

といえど、ドラマというのはそんな突拍子もないような脈絡のないお話は作れないし、だいたい面白く思わないんじゃないですかね。筋が通っていないのは。(時々外れたものみたがる人もいるけど)

 

やはり人々はある程度普通なものを見たがっているけれど、これが普通というラインから、どのくらい、とか。ここが特に、とかいう感じで外れてるとか。そういう部分を楽しんでいるんじゃないのかなと。それでドラマを感じるのはないでしょうか。

 

ある意味、ドラマを見ることで普通とそうではないというのが、固定化されてしまうのではないのかな。

そういう見方をせよ、という暗黙があるでしょう。

 

普通から外れてるというのは悲しかったり、楽しかったり。

 

ま。ドラマ見ない人もいるし、ドラマに求めるものは人それぞれなのでなんともなんだけど。

 

 

そんなこともあり皆の頭の中では、これが普通というラインだなという見方を無意識にしていそうと感じているのです。

見せるものは、これがラインだよと突きつけてくるかのよう。

 

この映画は主人公の妄想の日常を映像で表してしまいました。

 

程度の差こそあれ、皆、それぞれの妄想の中で買い物をしたり、食事をしたり、バスタイムを過ごしてみたりして、仕事中もそうかも。そんな感じで1日を過ごしているかと思われます。

 

どこまでがその人かというと、している行動そのものというより、その行動に付随している思いや考え、込みでしょうと思います。

 

この人はこういうもの身につけているから、こういう人に違いない、とか、陶芸してる人だからこういう人だろう、とか子沢山だからこう、だとか。

 

こんな判断も今までの経験や誰かの考えに基づいているかもしれませんし、本人こそがそのイメージの中でそれを選んでいるかも知れません。

 

 

 

 

アーサー、他人とは思えないなあ、というのが感想でした。

 

皆妄想の変態だし、その妄想の中身はその人の世の中に対する思い込みからくる反動?かな?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生き物について考える

今生きているすべての動物や人間について考えるのは容量不足で、かなわない。

 

わたしが、普段関わる生きているものは、バクテリア、細菌(違いがよくわからない)なんかを含むと途方も無い数字になるのだが、それは省いて、直接触れられる(一緒に生きているという感覚を持てるもの)距離のものは、多くない。

(会ったことのない食肉業者などは含まない。)

 

そんな中で、思うこと行動することの範囲が、実際にはいかに小さいのか考える。

 

人間は想像力巧みなんだな、と思う。

何かに所属している、という思い、や、何かを所有している、という思いや、自由に動かせるとか自由にならないとか、そんなことが、頭の中いっぱいだろう。

 

狭い世界を拡大してみる。

情報で。

繋がっているつもりになってみる。

 

考えたとしても、それは考えただけだ。

影響が及ぶこともない。

でも今生きている全ての生物について考えられないことに思いを巡らす。

欲張りなんです。

 

 

 

 

 

 

勘違いの世界に住んでいるのか

休日、アイスダンスをゆっくりテレビで観る。

コアなスケートファンでもなんでもないので技術的なことなどは何もわからないのだけれど、とても美しくて引き込まれました。

 

何に引き込まれているのか考える。

 

⑴ 動きのバランス。二人のバランス。音楽とのバランス。衣装の動き、色のバランス!思考の一致。

 

⑵ アジア文化でない文化の美しい部分。(男女ペアでの踊り、男女の関係性?)

は、一朝一夕では特に日本人には難しそうに思ってしまいます。

血に流れている部分みたいな。長い文化を感じる。

 

これは時代が進めば、男女ペアから女子女子ペアとか男子ペアとか出てくるかもしれない?

面白いし、新しいことができそうだ。

 

⑶ 2人の人間で、一つのことを作り出すこと。その呼吸が合っていて一つの完璧な世界が作り出される。

その過程で自分を出し合ってバランスが出来上がっていくこと。

新しい一つの世界が産み出される。唯一無二である事。

 

⑷ 一瞬の世界。再生される事のない世界。自分がそれに出会えている事実。(テレビですけれど、、^^;)

今のこの時代、この時間にしか作られないもの。

それに共感?している人たちが確かにいる事。

 

言葉でうまく言い表せませんね。

私が文化的な知識がたくさんあればそういった言葉を駆使して、いろいろなものに関連づけて、よりうまく多くの人に届けられるのでしょうね。

 

人は言葉で認識したものしか感知できない?というのはあると思うので私の感じれるものはもしかしたら限られている部分はあるにせよ、何かを感じていることは確かです。

頭でっかちも考えものというのもありますし。

考えるな、感じろ!というのも本当です。

 

外国で受ければ流行る日本の逆輸入に対するはてな?(これも昔の話になった?)や、良いものに反応する、外国人の素の反応に感心することがあります。

 

またまとまりがなくなって、おわり〜

 

感激することをうまく言葉にできないのはどうしたらいい?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もう、二度と会えない。

14年間一緒に暮らした愛猫が急逝した。

老猫ながらそれなりに健康な感じで過ごしていたが、本当に突然のことだった。(30分ほど前まで元気に動いていたので。後からいろいろ調べてみるとおそらく心臓発作のようなものと思われます。)

 

家族はパニックになりました。

 

私は外出からもうすぐ戻るというときに、そのことを電話で知らされ、急いで帰宅。

 

電話で話を聞いた時、とにかくもう息をしておらず、亡くなってしまった、ということは理解した。詳細は不明だが、おそらくそういうことになってしまったのだろう。

 

急いで帰る道、一番で思ったことはおかしなことに、自分は悲しんでいない?ということだった。

自分の感覚に日頃疑問を抱くことがよくあるので、この時も、もしかしたら自分は悲しむということができないのじゃないかと思ったのである。

もし悲しいとしたら、何が悲しいのだろう?自分を哀れんでいるのか。酔っているのか。悲しまないといけないと思っているのか。

 

帰宅。猫を見た途端、涙が溢れて溢れて止まらなかった。

私はちゃんと、悲しかった。

 

溺愛していた とは違うと思う。

面倒だなと思うこともしばしば。

家の中は毛だらけになる。

トイレ周りはチップが毎日散らばる。

洗濯物には毛がついて取れない。

毛玉をとろうとすれば噛みつかれ、痛い思いをする。

心が通じているとはとても言えない。

 

昨日と今日では世界が変わってしまうことがある。

昨日のようには考えることが永遠にできない。

なぜなら世界の構成が永久に変わってしまったから。

 

 

 

今日ペット霊園に火葬のため送り届けてきた。

秋のピカピカの良い天気。

 

これから おそらく習慣化した無意識な普段の行動ひとつひとつの中で、彼との関わりを持った世界の終わりを気付かされていくのだろう。

ベランダの網戸は必ず閉じなくても大丈夫になった。 でも私の指はそれに感付いても網戸を最後まで閉じてみる、といった具合に。もう必要ないのに。

その行動には意味がなくなったのだ。

 

 

わたしはいろいろなことから脱却しようともがいてきたが、彼が私のある時代を助けてくれたのが今はよく分かる。

 

私の人生に猫さえいれば、すべて良い方向に変わる。という強い思いがあった。そして出会ったのが彼だ。

しかし実際はそんなことはなかった。

一緒に同じ時間を生きて、いろいろ感じたのだ。いろいろ感じた時間の中に一緒に存在していたのだ。

 

 

もしかしたら私のある時代の終焉なのか。

貪欲なエネルギーが生命同士をつなぐ(つないでいるという錯覚?)ということがあるのかもしれない。

 

悲しさの本性はよく分からない。

いないことはとてつもなく寂しいし、空虚な気持ちがしばらくは続いていくのだろう。

  

 

 

 

家族みなが彼を頼りにしていたところがある。

さて、世界はどのように変わっていくのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

できれば楽しく過ごしたい

自分ではなく、他の人の人間関係に、憧れる。

実際のものであれ、想像の産物(創作もの)であれ、目に映るものは、こころの交信??

 

自分が、だれかと築く人間同士の関係が、想像つかないって想像つくだろうか。

 

こういう人と、仲良くなりたい。こういう人と関わりを持ちたい。

というのが、ないかといえばそうじゃなく、むしろ激しい。

 

しかし、その関係の中のわたしが、おそらくその関係に、見合っていない感じで、想像がつかない。

 

もう少し考えてみると、仲良くなりたいと、思う人と、仲良くなる自分像は、この自分ではない。というかんじかな。

 

そんなら知りあわなくていいや。というかんじ。

 

なにかのファンで、その人に近づきたい、という心理は、とてもまともなものだと上のようなことを考えるワタシには、思える。

勝手な一方的な思い込みを持つようなおかしい人も中にはいるでしょうが。

 

そんな自分の周りにも、家族や、会社の同僚がおり、会社の中には、支障がなければ話さない人、関係ないが、すすんで話す人、などはいる。

はたからは楽しそうだなあ、と思われていることもあると思う。

 

仲の良い人よりも、仕事上で、人と話す方がもしかしたら楽しいかもしれない。

気楽でよい。

ゴールのある物事についての会話が楽しいのかな。

 

 

 

 

わたしの人間関係についての、妄想なのか。

それこそ思い込みか。

 

人といると偏屈になってしまうのも問題で、

あらゆるポイントで、なんか違う、なんか違う、なんか違う。と、なりがち。

 

また、今度考えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

知らない間に世の中変わったこと

この頃あらゆる場面で、世の中こんなだっけ?

あれ?時間が飛んだ?

みたいな感覚になることが多い。

 

目に入ってくるものだけで、日々その変化をとらえることは難しいので、やはり、数年経ったあたりで気がつくんだろう。

 

今、リュックを愛用しているが、(身体がちょっとおかしくなり、バランスの問題と考えリュックになった)これは、去年からです。

 

リュックを思いついたから、世の中にはいつのまにリュックであふれていることに気がついた。

どういうものがいいのか考えるにあたって人の背負っているリュックが気になりチェックし始める。

サラリーマンから、学生からおばちゃんから。

思ったよりもたくさんの人が、愛用していることにはじめて気がついたのだった。

なんとなくは目に入っていたけど、ここまでとは思わなかった。

あ、私もおばちゃんなんだけど。

 

いつからこんなにリュックが、世にあふれだしたのか、わからない、、

 

そんなことが、リュックだけに限らずいろんなところにある。

 

CDや、テレビより、YouTube配信とか。(詳しくない)

ハロウィンイベントが、普通っぽかったり。

フリマアプリ全盛?だったり。

若者が、車欲しくなくなったという話を聞いてから、もうそれを驚くには年数が経ち過ぎている感じがあったり。

でも、わたしら中年の間では、まだ、最近の若者は車欲しがらないらしい。ということが、未だに語られていたり。

年取った分、若者の範囲が、広がりつつあるのか?

 

若者が、会社で、水筒持っていることを何年も驚いてたり。

 

会社が、若い人中心に、いつの間にか移行していたり、それに気がつかず、外れた感じで大口たたいたこともあったし。

 

突然はっとすること多すぎる。

が、これからもはっとして気がつくことしかできなさそうだ。

 

時代についていきたい(ちゃんと把握したい)気持ちがいっぱいだが、わたしの目線では、難しいとおもった。

世の中を、じぶんの気になることを通して見てるとほとんどのものを見逃していくことにしかならないな。